おはようございます。
最近、井上陽水の『傘がない』が脳内再生ヘビーローテーションだ。
僕の頭の中で音楽は基本的に絶えず鳴っていて、3日もすれば違う曲になっていきますが。
このころは、ゲームの『ファイアーエムブレム if』を徹夜でプレイしたり、大阪へ宝塚記念見に行った旅行など書いていこうと思っています。
でもやっぱり僕はもやもやを抱えていて、呑気な幸せな日々を綴るためにこうして思うことを書かないといけないんですよね(^_^;)
人の目を気にすれば、こうして5日と記事をかけなくなるのですが、やっぱりある程度気にしていない自分の方が面白い。
呑気な記事は明日以降まとめていこう。
今日、考えているのは感情移入の話です。
僕はニュースを見ると真面目に泣きかねない「気持ち悪い偽善者」みたいな所があって、それについて少しまとめようと思いました。
(以前も書いた、思考停止が大事だということにも関連するのですが、こういう尖った気持ちじゃなく丸い気持ちで)
感情移入の入り口は「いつから?」という質問
小説でもなんでも、感情移入をすることがあるかと思います。
自分以外の人の気持ちを想像して、その人の視点で物事を考え、感じること。
それが感情移入だと思います。
僕はこの感情移入をとやかくやたらめったら始めてしまいます。
感情移入へのハードルが多分一般的なものより低い。
これは少し原因がわかっていて、僕がすぐ「いつから?」を考えてしまうからです。
よぎる、と言っても大丈夫。
「いつからこの人はこう思うようになったのかな?」
「いつからこう強く思うようになったのかな?」
「いつから思想を持ったのかな?」
人はいつまでも一個人だから、気持ちや思いには原因があって、
それらは一個人レベルのいつまでも具体的なエピソードの結果だからです。
(社会学はこれを集めて体系づけていくもの)
エピソードに思いを馳せるのは「どうして?」より「いつ?」
僕が高学歴芸大卒貧乏という肩書きがあって、そこから見えてくるもの、研究的に明かせるもの、性格とかなんでも、
それもすごく正しいのですが、
結局僕は自分のエピソードを話し、自分の経験を見てもらいたくなって、自分の思い入れがほとんど全部。
同じように、人の話を聞くとき、思いに寄り添う時は、相手のエピソードがほとんど全部。
どんな属性よりも、相手のエピソードが何よりも説得力があります。
属性より先にエピソードがある、と言えます。
これは経験で思っていることなんですが、人に「どうしてそう考えるんですか?/そう思われるんですか?」と訊くよりも、その価値観について「いつそう思うようになったのですか?/いつそういったことを知ったんですか?」と訊いた方が相手のエピソードを引き出せることが多いです。
「どうして?」だと相手の論理の構造を聞くことができるんですが、それだと結局は理解に辿り着かないんです。
「いつから?」だと相手のエピソードを聞くことができて、理解に近付けます。
僕がそうなんですが、僕はぼちぼち突飛な考え方をしています。(突飛だと思われる)
で、その考えの論理を穴の一つもなく披露しても理解には全く近付かず、価値観のバトル、あるいは別世界に入れ込み合うのがいいとこです。
エピソードが見える
ここまででわかるように、人はエピソードに感情移入します。
でもこのエピソードは、感情移入する側の人が勝手に膨らませることができます。
むしろ勝手に膨らませることこそが感情移入の深さです。
どの程度から膨らませられますか?
エピソードはどこから見えてくるようになるのでしょうか。
僕は、ブラックボックスの中を想像することが好き、という意味で価値観や論理の構造だけでも自分をわくわくさせてしまうし、
多分エピソードはどこにでも潜んでいるんですよね。当たり前だけどね。
画面の指紋、色の名前、音、今いる場所、傘。
僕がなぜ、こういうことを考えるようになったのかカンタンなエピソードを。
中学生くらいのころ「この建物も人がつくってるのか…!」
僕に几帳面っぽさがあった頃、まだ色々なことから世界を想像してなかった頃、
身のまわりの物のうしろに人の姿なんて想像だにしていませんでした。
そのくらい建物の壁面は綺麗に、直角に、時計は正確に、完成品の世界の中にいました。
まぁそれが普通だと思います。幼いんだから。
小学生の半ばくらいから知識としてはあった、「人がつくっている」ということ。
完成品の裏側をこれでもかと隠されて育つと、「人がつくっている」ことに実感が伴わないんです。
完成品が全てで、過程は悪、隠すべきもの、という思いを知らず知らず持っていたんでしょうね。
それが実感を伴うようになったのは自分でものをつくるようになってから。
実感があってからものをつくったわけではなく、ものつくりの次に実感がきたんです。
僕がつくり始めたものは詞とか部活の演劇ですが、
つくる側になると、いかに細部まで細部まで考えるか、余裕を持たせるか、触れる人はどう思うかを詰める時間の多さ。
(うつも同時進行していたのですが)
ある時、考え込みが過ぎて夜眠れずに、宇宙の終わりの先の世界のことと全部人の手が及んでいること、
人が建物をつくっているところの妄想と、これからの宇宙の寿命との果てしない戦いの妄想と、名前をつけられない何か永遠のようなものと自分との対比とつぶされない歴史のことが広がったんですが…
なに言ってるんだこいつ状態です(笑)
人が建物をつくっているところ
完成品の世界にいた僕は、まさか作り手の存在を知らなかったんです。
「この建物も作り手がいて… ということはこれにも作り手がいて… 会議を通っていて、全ての配置にクオリティに意味があって…」
僕は構成されている。その建物も僕の精神を身体を構成している。
そう考えるようになりました。
僕だけが僕を構成するわけではなかったのです。
宇宙の終わりの先の世界
まさか自分の寿命だけじゃなく、宇宙にも寿命があるなんて。
知りたくなかった。知ってしまった。知らないフリができない不器用さ。
「知らないフリができない不器用さ」こそ僕の止まらない感情移入の性格でもあります。今はそうわかる。
気持ちの切り替えの術を持っていない当時の僕はこのことをずっとずっと考えます。
ここで僕が無意味の側に味方しなかったのが人生に方向を与えました。
さすが僕。
世界観を狭くすることなく、人生を全うする道を選びました。
これは少しバタフライエフェクトのおかげ。
何か永遠なのようなもの
どれだけ歴史が歪められていようと、亡霊でさえいられなくなる未来であっても、1400年前くらいに野垂れ死んていても、
僕がそれらに構成されているように、僕もまたなにかを傷つけ、なにかを癒すだろうと。
この思いは、のちにフィッシュストーリーの映画で僕を感動させてくれた。
子供を持たないことを、人の死を、僕は忘れずに思うことで自分の生をやっと自発的に全うしようと思えました。
エピソードが見えたら、感情移入が発生したか
僕の極端な論理よりも、僕が考えたくないものを考えずにはいられなかった思春期の話をする方が理解を生むことを願ってしまう。
そして、同じようにきっと読んでいるあなたも自分の考えにはきっかけとなるエピソードがいくつか連なっているのだとも思う。
シンプルな主張を、昔の自分への憎しみを、今の自分の感情の波を、このように説明したら、
ニュースで泣く「気持ち悪い偽善者」がもはや善とか悪とかじゃなくて、一個人のエピソードに自分を重ねているに過ぎないということがわかってくる。
そう、善とか悪とかじゃないんです。僕が泣くのは。
そんなこんなで、建物について感動したときに書いたものをば。
参考:ワカチアウトユウコト
そんなかるべの話でした。