問題意識を押し付けないように、自戒を込めて(自宅中継に触れて)

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自宅をUstream配信し始めて、3カ月ほど経ちました。
とりあえず7月1日よりサイト埋め込みが可能になっていましたので以下に埋め込みました。
(※Ustreamさんによる広告が再生されてから見られるようです)

参考記事:生存報告の一環で24時間自宅中継をUstreamで始めました

操作性は推して知るべしとしか言えない。

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「生存報告」とはなんだったのか/なんなのか

(何か切ないギターとピアノの音の方が説得力を持つ気がしている)

ぼそぼそと囁いてみる。

圧倒的な孤立

彼が先日、風邪を引き、ちらっとぼやいた。
「この電話を切った後、俺が熱に浮かされて死んじゃっても気付かないでしょう?」

彼は、僕の持つ問題意識を透かしているように言う。
(実際はもっと嗅覚で見抜いているのだと思うが)

圧倒的な影響

僕のバタフライ効果。

問題意識

問題意識を誰かしかと共有できなければ「孤立感」は解消されないのだろうか。
僕はこれについて、最近ただの強迫観念なのだと考えている。

強迫観念という言葉は強いのだけど、一度ここまで強い言葉で自分に突き付けないと自分の芯の部分で考えていることが見えてこないもので。
でなければ、僕はずっと夢を追えと急かし、したいことを見つけろと囃し立てる、理想主義だった気がする。

選民思想を取りやめるために、一度直線に相対して円をイメージすることを始めた。
なにか、いつもxy軸で想像してしまうので、円形にループするようなイメージだ。
やっと僕の言う「グラデーション」を自分の中でイメージとしてつかめた。

問題意識を共有できないことがいつの間にか問題にすり替わってしまう

「対話が出来ない」
「言語が違う」
「別の世界に住んでいる」

そんな言説で僕、および多くの人が問題を気が付くとすり替えてしまう。

問題意識は、僕はシンプルに「僕の存在/不在」のことだったのだが、
やはりその問題意識を共有する時点での「壁」に絶望を気が付くと覚えていた。
ゆっくりと紐解いていくと見えてくるのは、問題意識を共有しなければならない、という強迫観念なのだ。
しかし、他者とはそういうものだ。他者と関わるには必ずぶつかる「壁」だ。
そして、僕はゆるやかに整理しはじめて、最近は問題意識を共有しなくてもいいんじゃないか。
いや、共有というのはもっと、色々な方法があるように、僕が強迫観念で生み出した「共有する」という行為とはもっと別の。

「したいことがないのは素敵なこと」という言葉を素直に示していくために

ドーナツを食べていた。

「別にやりたいことない」と言うのが、あぁすごくいいなぁと思ったのが東京。

参考記事:所属をしました。
参考記事:東京巡礼、応答。

したいことがないのがなぜ素敵だと思うのかをほどきたい。

やりたいことは考えたもん

この世界で、やりたいことを捜さないでいるのは難しい。
やりたいことは捜したと思う。
それでいて、やりたいことが特にないのなら、それはまず尊重すべきだ。
これは本当に壮大な皮肉なんかじゃなく、やりたいことなんてものはもう捜さなくていいと思ったんだ。
どれだけ「やりたいことを見つけた」という物語が強迫してきても、それはやっぱり他人の人生だ。
だが、他者とはそういうものだ。これからも「やりたいことを見つける/成し遂げる」物語は強迫を続けると思う。
そして、その他者もまた愛しい大切な人たちで、その物語の強迫性は無自覚なものだ。
(だが、僕は無自覚なものも罪と罰を求める主義だ。どんなに無自覚であれ、それらは背負わなければ、と切に願う。自戒が些か大きいが。)
そしたら、僕はやりたいことが別になかった人をやっぱり愛しいと思う。

生き方を見つけなければ不実だなんてことはまずあり得なくて、目の前の笑顔と一緒にドーナツを食べる、そんな素敵さはそうそう出会えない。
したいことがないことを憂わせるのなら、それはこの世界の不健全さを真っ向に抱えてしまっているからだ。
(もちろん、そうか、などとはならないのだが)

倫理の話が残るが、とりたててはドーナツを食べたいのだ。
いつから人生に向き合わされたのかというと、思想を持ったからだと悪人は揶揄するかもしれないが、思想はやはり先人の思惑通り、僕もまた自由だと願わされている。思想の自由、というのは全く美しくもなく、数値的な社会貢献にもならないが、思想の自由というただシンプルに保障することが有名無実にならないように、僕はとりたてて右手からドーナツまでの距離で全力で思想を垂れ流すこと以外にない。

参考:春が待ってる。行こう。

参考:消えていく

微妙な感情を誰も彼もに見せないらしい

あぁ、なるほど、と思った。

僕がたしかに問題に思うことが「存在/不在」のように他人、社会との距離の間にある事柄であるように、
僕はそうか(選民思想を上手に使いこなせないのもあって)誰も彼もに微妙な感情を表現するから、そうかややこしいのか。

僕にとっては、問題意識の共有がやっぱり「孤立感」を軽減させるのに直接つながるのだろうか?

いつから、微妙な感情を塞いでいくようになったかというと、という話は面倒なので、現状の整理から始める以外にない。

・微妙な感情を持っていないために理解できない
・微妙な感情はごく親しい人にしか見せない(のが美しいと思っている)のでかるべには見せるわけがない
・微妙な感情が微妙なので、つかむのに労を要する
・微妙な感情は微妙なので、他のハッキリした感情ほどには重視していない
・微妙な感情をとてもわかっているが、かるべに届かない/届ける関係ではない

こんなところだろうか。

僕は孤立しているのかというと実際そんなことはなく(あるが)、問題に思うのは「孤立感」それ自体だ。
そして、それは僕の特性が原因だと思っているのであまり救えない。

微妙な話過ぎて

たぶん、小さな齟齬は大きな問題にならないのだろう。

とりあえず、真実に願うことだけを唱えることを心掛けたい。
そして、僕の問題意識を、大して問題に思わなくていい。
問題意識を共有することではなくて、きっとそこに関係性が見出せればよい、なんて実は初めから知ってた。

そんなかるべの話でした。

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