彼氏と話す政治のこと

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 最近は便宜上彼氏ともより仲良く、便宜上取れるかなぁなんて考えたりもします。でも、甘んじずにアタックするのは僕だという意識を持ちつづけようと気を引き締めたりもします。調子に乗るのを気を付ける。
 さて、政治や宗教の話はタブーとして扱われます。でもごくごく親しい人との間でぐらい、僕はこれも凌駕して話をしてしまいます(僕が「なんでも話せる」ことを強く望むからというのもありますが)。こう言うと僕が空気を読まないかのようですが、どちらかというと「なんでも話せる」関係を築けるかどうかを最初のうちに嗅覚で判断して、そこから仲良くなることが主なので、政治や宗教の話をすることなどで身近なトラブルを起こしたことはないですね。というより、僕からしたら「価値観」に収束されてしまって、特別に政治や宗教がピックアップされて…という展開にはなりません。
 彼氏と政治の話をよくします。
 僕が無知なので、親しくなれそうな人だと僕は質問攻めをします。昔はこのことにも無自覚だったので色々な人に迷惑をかけました。質問って攻撃にすぐ化ける。だからいかに無知な純粋な質問かを(言い方や目線などで)演出して質問しなければいけない。純粋な質問をするために、純粋に見える演出が必要になるので、質問というものは「つきつける」性質がもともとあるんでしょう。

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彼氏に政治の質問をする

 選挙権を持ってからまだ4年の僕は、投票の機会がそもそもまだ3回くらいしかありません。政治のこと、真面目に向き合わなきゃという特性(僕は自分で意図的にコントロールしないと不真面目になれない)で、最初の頃に何も選べないという経験がありました。
 何も選べない、というのは白紙投票しての意思表示をするということも決められず、投票日一日中苦しむという経験でした。
 もうこういう経験はしたくないな、自分の中の政治的な意見を洗練させないと、優先順位を決めて、取捨選択するメンタルを手に入れないと、そんな風に選挙に関して自分を追い詰めていました。投票に行かない、という僕の結果だけを見れば他人から叩かれるのは当然なんだ、僕がいけないんだ。っていう仕組みですね。
 そして22歳の終わり頃、年末ですね、に今の彼氏と仲良くなり始めました。僕が仲良くなるというだけあって、質問に答える力を持っている人でした。ただその力が尋常じゃないので、今まで続いている面もありますが。
 質問に答える、というのは何も正答である必要も、ましてや答える必要もありません。矛盾して聞こえるかもしれませんが、一緒に考えたり、すぐに答えを出せないものは置いておいたり、そんなことも「質問に答える」ことなのだと学びました。
 僕は、テレビでニュースを見ていてもわからず(あの池上彰さんの番組でさえ、僕には速くてついていけない)、彼氏に質問をします。「えっと、何が問題なの?」すると彼は答えます。僕に答えるときはわりとざっくりなのですが、さすが文系のど真ん中出身なのもあり、僕が疑問に思っているところをかいつまんで答えてくれます。「結局、先延ばしになっているだけだと思うよ。」
 政治じゃなくてもそうだと思いますが、権利の問題や利潤の問題や立場の問題や板挟みな問題や、色んなことが重なっていて、うあー、と僕はなります。

政治の話がタブーになるのは他者の対立する価値観を認める力を根本的に持っていない人間が多く、市民権を持っているから

 『思想犯?』を始め、Facebookを再開し、身近なところからも政治的意見が耳に入ることが増えました。僕がいたメガネゲイコミュニティでは一切聞かない、避けられていたような話題。安保に反対や賛成などの意見を聞き、自衛隊の話を聞き、沖縄の話を聞く。
 あぁ、これは巻き込まれたくないのに巻き込まれてしまった現象なのかな、僕がセクシュアルマイノリティのこと詳しくなりたくてなったわけではないんだけどな的な、でも手の届く生活の範囲では、コミュニティでは楽しんでいる側面もあったりするような。
 いや、きっとそんな生半可なものではない。いや、生半可でいいんだ。
 彼氏は「選挙はお祭りだよ」と言った。
 もちろん、それは誰もに向けた発言なわけではなく、考えすぎて何もできなかったことを話す僕に向けて言ったものだ。なんとなく、それからは政治も人の営みだと感じられるようになった。
 政治的な話を耳にすると、僕は明確な意見を持っていないことを責められ、つきつけられているような感覚になる。まるで質問のようだ。厳密には不安なのだろう、僕がこのように意見を持てていない過程を、話したとしても否定されるのではないだろうか、と。
 意見を持つことは確かにえらい。同時に意見を持たないこと、無関心もえらい。
 想像力が著しいので、日本人はやれマナーがいいだのやれおもてなしだと言われると思うんですが、小さい頃に「人からどう見られるか」を考えるように教育されるように、日本人はそもそも他人をよく観察しているんだと思っています。アメリカ人の役者の人とお話をする機会があり、話すと「日本人は普段からおしゃれすぎる。そんなに誰も見ていないよ。」と言う。そうか、僕たちは他人を見過ぎているのか。
 想像力が豊かなのは、そうだね、えらい。でもこれも過剰がだめなら、人類は永遠に加減に悩まされ続けている。そのまま死んで次世代になる。まだ同じことで悩んでいるんだね、と嘆いてもいいのだけど、それが一重に人間臭さで、誰にも止揚はできない。それだけのことなんだ。

参考記事:考えることが「いいこと」とされることに腹が立つ

 認めることは難しい。自分を認めないまま自分を認めることは難しい。矛盾を抱えることは難しい。加減を調節するのは難しい。個別具体的にしちゃって後回しにしていたい。後回しにしていることをつきつけずにいるのは難しい。後回しにしているんだね、と笑える内容でもなくて、答えを出すのに焦ってしまう。

それでも願いを意見にしなければいけない

 阿蘇温泉に行ったとき、久方ぶりに流れ星を見た。願いは意見にしなければいけないのだろうか。
 純粋なものを純粋なままにしていたい、と多くの人が願うが、加減に悩む僕などは願いと意見の齟齬に焦ってしまう。
 僕はこれっぽっちも答えを出さなくてもいいんだよ、などという甘言を心に持ってはいないんだ。
 そんなかるべの話でした。

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