所属をしました。

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自撮りです。自撮りだろうが表情はつくれますが、自撮りと告げてしまうと若干ひきつっていることが汲み取れるクオリティです。

「ノンケの自撮りが微妙」問題をたまに考えますが、結局は「モテる」という目的の方が強いので、自撮り技術は本質的には問題にならないので、人と会ったときに愚痴でしか言いません。

参考記事:東京巡礼、応答。

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正式な所属を始めました

正式な所属、「所属」について僕は多くの逡巡をしました。

参考記事:正式な「所属」を持つことへ慎重になる思いとは。

そして、2015年8月23日19時02分付けで、福岡の14+という劇団に所属させていただきました。

外部リンク:14+ 公式サイト

僕があれだけ所属・肩書きについて明確に持たない/持てないことを纏めた以上、ここで書かなければならない。(そして、それは2ヶ月考えていた。そして、それはイメージ戦略についてのことも含められる。

参考記事:イメージ戦略についての思索 )

直接のきっかけはMr.Childrenのドキュメンタリー

6月の半ば、NHKでミスチルの新アルバムやライブツアーの裏側に迫るドキュメンタリーが放送されました。

参考記事:Mr.children の2015スタジアムツアー『未完』初日7月18日 福岡ヤフオク!ドームに参戦してきました!【セットリストと感想】

リアルタイムでそれを見た僕は、「どうして僕は作品づくりに携わって、こうして、こうして、誰かとつくっていきたかっただけなのに、なんで俺はこうして見て、悔しがり、こだわりを話せる相手もいないで…」と衝動に駆られました。

そして、音楽がしたくてしたくてしょうがないはずなのに演劇になってしまう、離れられない僕の福岡の演劇事情のGoogle検索が即時に始まりました。

そして、ここには僕の言う「演劇」そして突き詰めると「音楽」について話さないと本当はよくわからずに終わってしまう。

かるべの演劇観

演劇、という言葉は僕の環境にいつも滞る。

究極的に「パフォーミングアーツ」は(僕が昔から主張していることは)「変化」そのもののことだ。

時間の中で変化するもの そしてそれ自体、それが僕にとっての広義の「演劇」だ。

そして「変化」とは「人と人」のことだ。

「演劇」をしなければいけない

直接のきっかけは確かにドキュメンタリーだったが、この強い思いはただ単に一人の人間の思いの積み重ねでしかない。

そして、一言書き記さねばならないのは、「僕は音楽を一番にしたいと考えていること」だ。

なぜ「音楽」をしたいのに「演劇」をしたいのか。

「音楽」と「演劇」の話をしなければならない。

いやここは、この二つの方法について想像を任せたい。
僕が「音楽」をしたくてしょうがないのに「演劇」やらないとならないと感じる。
この仕組み(つまり僕の言うファンクション)に僕の社会不適合性が表されているし、これが受け止められなければ世の中には論理の飛躍が一切許されない(つまりそういう考え方を「貴方」がしていることが浮き彫りになる)のだ。

別にいいけど。

ではなぜ「所属」をするのか

単純でびっくりされるかもしれない。

一人ではなにもできないからだ。

世の中には一人でできる「ツール」も多く溢れている。
たとえば、僕が作詞をする様はまさにそれだ。

参考:Out of Rainbow

これは直接は『虹の外』(にじのそと)という詞・感覚がタイトルになっている。

参考:虹の外

『虹の外』というのは、とても直接的に「セクシュアルマイノリティの外側」のことだ。

文化と政治の両面から疎外を自分の中で生み出し感じた(もはや他人が原因か自分が原因かは誰にもわからない)精神病のことだ。

では、実際はどうだろうか。

作詞などの行為はとても独りよがりで、言葉だけを見ても独りよがりで、とてもじゃないけど普通の人は読まない

読まないよ。

音がつけられたことがある。
それが『しゃくなげを喰らうの』だったり『ステイ』だったりする。

ここには、人と人という関係性が結局欠かせなかった。

僕らはどんなに無関心ぶっても人と人から逃れられない。

僕が「所属」へと向かう意志はこういったものからもたらされている。(何度も繰り返すが、直接背中を押したのはミスチルのドキュメンタリーだ)

一人ではなにもできない、というのはむしろ無理矢理にでも前向きに捉えて、自分以外の人と関わることで生み出せる価値観や感情を、

自分は感じられるのだ

と喜ぶ以外に、なにもない。

「所属」は何をもたらすのか

本来「所属」には強い意味はないのだ。

僕が「所属」に「アイデンティティ」を添えるものだからややこしくなる(若者の離職率を憂うのならばこの問題について実感を持つべきだ)。

僕は「特性」という言葉を用いて、「所属」に「アイデンティティ」を伴う自身の話をよくするが、実際に言いたいのは(というか普段が壮大な皮肉なのだが)「アイデンティティ」を伴わない「所属」のハウツーを身につける術が限られてることに問題を感じている。

責任転嫁といえばそれまでだが、責任の話は僕の前で無力だ。全部整える必要がある。

参考記事:自己責任論者は社会から孤立してから主張してほしい

では、「アイデンティティ」を伴う「所属」をする/させてもらう僕はどうなるのだろうか。

なんだと思う?

どうなると思う?

一つは最優先に取り扱うことで生じる問題のことは予め感じているので気を引き締めていく。

もう一つは、自分を認め称賛し受け入れる恐れだ。

僕は主張する。「したいことなどなくていい」

なくていいんだ。

したいこと、やりたいこと、夢、興味、好奇心、

それらについて、僕は同調圧力を削る必要がある必要以上に。

自己同一性というものは厄介で、なかなかにして、独裁社会を求める。
他人に「え、したいことないの?」などと訊くのは僕からすれば独裁思想家の発言だ(かつての僕もそうだった)。

いや、文脈上訊くことも大いにあるだろうが、先日のつきつけるという行動の文脈での「したいことないの?」は総てが独裁思想だ。

そういう人は真実味もなく「こう生きなきゃいけないってのはない」と口にするだろう。

真実味を持って、「いいねそう生きてるの」と言うには膨大な知識と想像力と観察力が要る。

人は拘束されるべきでない。したいことが見つからないという漠然とした不安、そんなものに縛られるべきでない。
端的な問題だ。
僕が演劇をしていると口にするときに、僕がしたいことをしてて幸せだねなどとファンクションの部分で思わないようにしてほしいのだ。

人の特性やファンクションは簡単には変化しないだろう。
だから一概に皆を否定することはできないのだが、本当にせめてだ。身体に表出させる総てがメッセージとして相手に観客に役者に届いていることを鑑みてほしい。

それだけの、
そんなかるべの話でした。

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