非言語的メッセージを共有できなければ距離は縮まらない

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社会福祉士の資格勉強をしていたときの話です。

相談援助演習という科目で「ノンバーバル(非言語的)コミュニケーションの理解」といった内容が、あるいはそれに類した内容が必ずあります。

コミュニケーションが言葉のみではなく、非言語でも行われるというのはとても当たり前なことですが、対人援助職ではこの部分も大変重要 (場合によっては命に関わるほど重大かつ必要な技術) になります。

でも、別にそんなの福祉に限らないですよね。

「言った/言わない」の争いよりも、目の前の表情が、声色が、目線が、身体が、言葉の間が、動作の間が、(つまりはノンバーバルなものが) 真実味を帯びて根拠となる。

僕はそんな風に噛み砕いています。

福祉の話から離れて、もっと広く人間関係の話をしようと思います。というか今日の結論は「ノンバーバルメッセージ」に敏感になれ、というわかりきったものなので、読まなくていいです。

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「ノンバーバルメッセージ」を学ぶ馬鹿馬鹿しさと真っ当さ

「ノンバーバルメッセージ/ノンバーバルコミュニケーション」について体系的に学ばなければいけない、論文を読まなければならない、なんて馬鹿馬鹿しいと考えていました。

これは結論から言うと僕がどうも少し過敏だったからみたいです。
原因については勝手に考えて、概ねそれらのどれも大きく外れていないと思います。優等生だったから、他人に迷惑をかけないようにと言われていたから、純粋に優しかったから、想像力が豊かだったからでもなんでもいいです。
僕は他人の言外のものに昔から敏感でした。少なくとも小学三年生の頃にはどうすれば他人からよく見られるか、どうすれば他人が喜ぶのかわかっていました (それは完璧主義を促進させてしまったネガティブな面と、だからこそ子供とも対等に向き合えるポジティブな面があります) 。

僕にとって「ノンバーバルコミュニケーション」は座学で学ぶような語られるようなものではなく、観察と実践から身に付くものでした。

ただ、(これは課題だと思いますが) 「ノンバーバルコミュニケーション」について往々にして個々人の経験則が権威を振るうという特徴があり、僕も御多分に漏れず経験則でしか語っていません。

それに気がついたとき (それは僕の感じている社会との違和感の原因が、僕がセクシュアルマイノリティであることが直接の原因ではなかった、と発覚したとき) 、「ノンバーバルコミュニケーション」について多くの人が学び共有する必要があると考えるようになりました。

参考記事:セクシュアルマイノリティはむしろ保守的なものだと知ってた?

「メッセージ」過敏

僕はよく思い出せないのですが、「総てはメッセージである」的な格言があった気がします。

「メッセージ」とか面倒くさい単語で、この言葉の概念をつかむのはここでは目指しません (マクルーハンのせいです) 。

とりあえず今は人間関係での話なので、対人においての相手の感情の表出と置き換えてください。どうせ、目の前の人の態度にびくびくして怖いみたいな話ですから。

ということで、僕は経験則という弱めの根拠で (いっそ職人として僕を題材にすれば、経験則は一気に強みを持ちますが、) 言外のことから壮大に(被害)妄想を繰り広げるのです。

これらに鈍感であることが幸せだと僕は皮肉をよく言いますが、実際適度に鈍感である方がいいとは思っています。

参考記事:考えることが「いいこと」とされることに腹が立つ

過敏であるとどうなるかというと、

甲「このコーヒーすごいおいしいっ!」
乙「うん」
甲「え、おいしくないの?」
乙「いや、おいしいよ」
甲「いいよ無理しなくて」
乙「え?」
甲「ごめん」
乙「え、なにが?」
甲「今の、うん、がいつもより声のトーンが300ヘルツ低かったし、声色が少し低周波数多めだったから、本当に同意してるんじゃなくて生返事だったのはわかるし、返事するまでの間が0.3秒だったのは、こいつめんどくさいなぁ、って意思表示になっているし、目線が20°左ににそれてて、しかも焦点が30cmほどの近いところを見ていたから、自分の考え事をしていたのはわかるし、左肩と左腕の力がいつもより800g抜けてて背筋が椅子に対して10°曲がってるからこの場に集中していないのもわかるし、あ、今、上の歯で下唇を軽く噛んだってことはもうこの時間が嫌だってことなんでしょ? なんで、それなら直接言わないでノンバーバルメッセージで伝えるの? そんなに人を傷付ける方法でメッセージを伝えてくるなんて、人のことなんだと思ってるの!!!」
乙「なんで切れてるの?! コーヒーの味を堪能してただけだよ!」

という展開が起きます。
リラックスしていると自らのノンバーバルなものを人はあんまり管理できないようですね。

ノンバーバルメッセージを共有するために

これは一重に、そして結局、でも現段階では、いや待てよ。

僕はうつの頃、多くの人がうつになればいい、という呪いを唱えていました。
これは、自身の気持ちが当時思春期の僕の身近な周囲で共有できなかったもどかしさからだったかな、とも思います。
でも、多くの人が喪失経験をして、ネガティブな経験をすればいいなどという暴論は間違っている、それは呪い以外の何物でもないと今の僕は思う。

だから、ノンバーバルメッセージを共有するためにできることも、呪いをかけることではなく、これまた経験則という馬鹿馬鹿しい発想だが、僕の考え方が変化していった流れに糸口があるのではないかと今思いました。

ノンバーバルメッセージを共有できない相手を責めても、(それはかつてラブアンドピースで世界を染め上げようとした独裁思想を僕が持っていたように) 多様性など口ばかりの人間らしい人間になってしまうと思ったのだ。

ノンバーバルメッセージを共有する道程は想像以上に根深い話なんだと少しずつ気付き始めた。

齟齬の置き場所をつくれたら

往々にして語られることを、実生活に落とし込んでいきたい。僕の面倒くささの特徴だ。口だけの人間になりたくないのだ。

「わかり合えないからこそいい」をどうすれば実践できるのかを考えたとき、自身のなかに齟齬を置いておける広場があればよいのではないか?
と書いてて巡らせたなう。

社会人などは生きるために齟齬を心的に排除・無視する術を身に付けていくのだと観察していて思うのだが、かつて社会人でなかった頃、齟齬を否が応にも心に浸食されたはずだ。

(学校の不健康さ!)

参考:学校

齟齬の置き場所を持たなければならない。
それが「みんな違ってみんないい」の実践だ。
そして多分ラブアンドピース独裁に唯一対抗できる論理かもなどと思い上がれる。

齟齬を置けるなら、ノンバーバルメッセージは経験則で語られても少しだけ優しさと強みを持てるかもしれない。

彼は言った「それでも俺はもやもやしちゃうよ」

2014年2月のカンボジアでの話だ。
彼は沈黙したあと「わかるけど、それを子供に求めるのはどうかな、と思っちゃうし、それでも俺はもやもやしちゃうよ」と言った。いつものつらそうな笑顔だった。

それまでの僕は世界の色々な問題をしたり気に知った風に知ったかぶりで語る側に肩まで浸かっていた。
齟齬の置き場所など発想さえなく、多様性を履き違え、違和感だけを胸に、そして人間不信を武器にしていた。

僕はそれまで、「もやもや」を「もやもや」として持って「もやもや」し続ける道を選ぶ/選んでしまった/選ぶしかなかったような人を見たことがなく、相手の苦しさと頭のよさとなんやらに驚いた。

僕は、お金を恵んでもらおうとアンコールワットの関連群の寺院にて観光客に集まってくる、まだ小学生くらいだろうか、子供に対して「目的とやり方が一致しない」と考えていた。
子供に囲まれまごつく彼と、人を寄せ付けないノンバーバルメッセージを発して歩く僕の速度で距離が生まれ、いつものように自然とした会話だったけど、言葉で対立したのは初めてだった。

僕は今まで、なんでこんなひどいことを考えていたのだろう、と思った。

世の中への純粋な優しくいたい気持ちを持ち続ける道を選んだ彼はヘンテコだった。
「じゃあ隣で俺ももやもやし続けるよ一緒に」と伝えた。

観光を続けた。僕は「向き合いたくないものが生きてるとたくさんある」といった詞を以前に書いていて、攻撃的な気持ちを吐き出していたが、ノンバーバルメッセージで互いにキャッチボールを続けられるなら、観光なのに、向き合って、向き合うから忘れて、そもそも日本の情勢に疲れて、カラオケに行って、壮大なコミュニケーションが、些細なコミュニケーションが日常に溢れた。

「もやもや」することはとても難しい。

「もやもや」し続けるなんてとても難しい。でも今思えば、それしかできなかったのに、晴らそうと晴らそうとしては不信を武器にしていただけか。

ノンバーバルメッセージは共有できる。
それは一重に、自分の思想と世界観(死生観)は言語よりも自然にノンバーバルメッセージとして表出するからだし、ヒトのファンクションとして表出しやすいものなのだと思う。
まさに齟齬の置き場所を互いに持てるかどうかで、持てない/持たないという人間らしい人間と関われないことが僕の違和感の正体でもある。

そんな、かるべの話でした。

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