場所

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生きる場所なんてどこでもいいだろうと考えていた僕は、それこそ4年前も「じゃあ引っ越せばいいのに」とよくひとりごちた。

災害や人間関係、風土について苦しむくらいなら「引っ越せばいいのに。」

人が自らの首を絞めるとき、「意味がある」「意味がない」と言う。
「意味」という言葉が難しかった僕はQOLのことか、と咀嚼する。

なるほど、QOLが勝る場合は引っ越さないのか。

(後に、惰性の存在に気が付いて、単純化が赦されない衝撃を食らう)

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「場所」が世界観になる

僕は繰り返しになるが、自分の「場所」というものをよくわかっていない。

参考記事:僕は生まれ育った東京を故郷だと思ったことはない

本当は実際の土地というよりもなにかもっと精神的なものや人間関係のもの、コミュニティのようなもの、文化のようなもののことで「場所」のことを考えていたけれど、きっと実際の土地が「場所」になるQOLがあると福岡に引っ越して気がつく。
それは五感への思い入れみたいなものから、こじらせた学習効果・レスポンデント条件づけのようなものもあるのだろうなぁ、と考える。

自分の「場所」から離れるのも留まるのも大した営みではないな。どっちも自分の世界観に気がついたらとらわれていただけだな、素敵だな、と。
つまり、苦しむ人のQOLに馳せることの方が一大事で、詰まるところ苦しんでいる理由は結局「場所」とは関係があまりない。世界観の危機そのものが苦行で、新世界か疑念の払拭か、どっちかしかない。

でも、それが違うと言うところまで行くのが難しい。危機をそのままに人生を楽しむのは、悲しみが必要という言説並みにうさんくさくなりがちだ。

それは答えではない

ずっと、確かに答えを追求し、唯一解というものの安心感に(頭ではわかっていても)酔いしれる。それはごく一般的な物理的な構造の一つだ。

それでもそれが答えではない、と僕が言うのは、多くの言葉を発する選択のそれらと変わりはない。怖いとすれば、制御の外にあるイデオロギーの的だ。

意味でもない

厭世的に「意味がない!」と豪語するのとは全く違って、僕は意味の有無の話をしているのではなくて、意味と感じさせるそれについて話しているのだと思う。だからいつでもわかりにくくなるし、この話題自体が世界観を脅かす。

僕は本来は脅かす意図など何もなくて、ただの質問好きな子供だった。
倫理や暗黙の了解というものの解説を欲してしまったが為に逸脱は必然の一途だったと思う。

厳しいと思うが、攻撃が正当化されやすくなる。そもそも唯一解の安堵が、こうも複数も乱立しているし、だからなのだし、だからなのだ。

唯一解で唯一解をつぶすことができない。その意味で、いつまでも僕は芸術にそれを見ただろう。
だけど、それを特筆したいのではなく、僕は「非場所」に(最早 居る という動詞は相応しくないけど)居たいと近頃は思ってるんだけど、それはだからそうだね、そもそも違う世界のようだね。

ある人たちは不可能と言うだろう、それが僕たちの身体と物理の全てだ。

「場所」と選択

「場所」を選べないのではないか?
そんな可能性を考えてみる。

つまりは世界観はいつでも危機に晒されているが、やはりそれは嘘ではなくなって、どこかでずっと問題を解いていられないかと期待してしまう。

そんなかるべの話でした。

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