属性を持たない顔をしていたい vs 自らを属性で語りたい

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先日、小倉までバストリオの『白と黒と幽霊たち』を見に行きました。

写真は、佐賀で行われたバルーンフェスタ/熱気球世界選手権 を見に行った際のもの。

この前、書いていたテキストを書ききって、ようやくブログを書くきっかけや思いが再燃したところです。

継続が大事と言われる、そのありきたりな一つです。

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ポリアモリーではなくモノアモリーの実践/実際

「性的」というと英語だと「セクシュアル」なのに、日本語だと卑猥な意味が聞こえます。「意味合い」の「意味」ではなく「合い」の部分を担当しています卑猥。

僕、かるべは「性的少数の人」に括るとぐぅっとわかりやすい存在になります。
しかも、最近はゲイに留まらず、ポリアモリーを考えて、モノアモリーを実践している と響きはいいけれど、実践ではなく実際がそうなだけ。あまり強い選択意思があった訳ではない。

でも選択意思がないなんて、とてもありきたりな「性的少数」のエピソードな気がします。多くの少数が非選択であると主張し、選択型の少数とは打ち解けられないかもと身構えて。

自身を、属性で語るのは無理があるな、と。

僕は四月にポリアモリーを深く自認?するようになって、それはでも「ポリアモリーの実践」にはならなかったです結果的に。
かるべの中では、「好きな人を好きだと思う気持ちを認める」ための流れでたどり着いた名前のある属性であったという印象。でも現に好きな人たちに好きと言ってみると、それぞれ関係性の点で考えるわけですが、「性的」な関係でないので、「ポリアモリーの実践」とは異なるニュアンスになるよなぁ。

ポリアモリーの話をする/聞く際(自分が話せるほどの識者ではないのでこれは世間話の一貫で)、「性的」は避けられないことが多い。大切なことで、自らの「卑猥」をどう自覚して、どう共有するのかと考える。

誰とも同じ。と感じる。

今、「はざまのまなざし塾」という講座に参加している。
共通点と差異が明らかになった/不明確に右往左往する今、これからのことを考えています僕。

詩人になります

尊敬している先輩と話していて、「詩人」という「肩書き」が一つ見つかりました。

僕の言うかるべ語「書き手」「書く人」と親和性のある社会の位置付けかもしれないと、今はおこがましく、でもなんとか社会と片足着けていたい思いはいわゆる「生きづらさ」に応えている。

生きづらい なんて問題は明らかになって随分時が経ったので、やはりこれはアーカイブまで。(僕はそれを「私の子供」と呼んでいる)

少しずつ、話してみます。変化を。

そんな、かるべの話でした。

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