福岡に来て2年1ヶ月。近況と

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東京から福岡に来て、2年経ちました。
いろいろなことが自分の中で、外側で、整理ができてきました。

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根本的には「さて、どう生きようか?」

ごくごく当たり前ですが、どう生きようか? と常々考えています。考えより先に行動ができる性質ではなく、行動は常に考えに基づいているかるべです。(制御できているかの判断は別問題ですが)

本当に字のまま千差万別ですが、指示待ち・他者決定の良きものへ向かうのが得意な自分の人生では長らくどう生きるかについて、「自己決定した感」が薄いものでした。
「感」は実感であり、事実とは異なる可能性がたぶんにあるけれど、同時に単純な自己肯定の本質です。「感」がなかったら自分を肯定できないのだから、「感」と他者の生き方を両立することが一つの本性です。

生き方について整理できたこと

・向き合うべき関係の人と、向き合う真実の努力をすること
・大切に思う人を、真実に大切にすること
・自分は笑って過ごせる方が楽しいので、楽しむ方向へ進むよう丁寧に考える

真実や丁寧が難しい。

「向き合う」と言ったときに、がしがしずけずけと思いを口にすることではないし、感情を剥き出しにすることでもなくて、そもそも一概にこうこうああすれば「向き合う」と言いきれる行動などないのだと常に気を付けて再確認しなければいけない。

「大切にする」と言ったときに、自分の思い通りに相手を守ることでもないし、相手の思い通りに受容することでもない。そもそもそれは受容ではない。大切に思う人それぞれで、大切にする方法は違う理由は、その人をいつから大切に思うかを呼び返せば、再確認ができる。同時に大切にされていることがもう一度わかる。

どうしたら、笑って過ごせるか。これは人生の話だ。だから甘いことがあってよくて、まず最初にこの「楽しむ方向」へ進んでよいと言ってもらう。自分でも他人でも、味方が必要だ。人間としての価値を信じられないとき、それは自分の中に社会規範があるのだ。自分で作ったか、疑わないでいいものなのか、考える時間が必要だった。

無意味主義の言う通り、価値や概念は、形成されてできるものだ。そして僕の世界観もまた、無意味主義のそれにかなり近い。
だから、だが、僕はこの身体について感情の発生を迎合するのみだ。
自身の機能としての3つの指針は無意味主義とも両立できる。

釈明をしなければならない筋は、感情の発生の仕方が争うときの件だ。二人ともケーキを食べたいのに、ケーキが一つしかないような話だ。
3つの指針は、無意味主義の確実さと違い、いつも脅かされている。両立が不可能な場合があるかもしれない。

今、平穏無事なのは、この3つの指針が、そもそも少数で満たせるからだ。
向き合うべき人や大切に思う人が増加したときに、危惧すべきことが待ち構えているが、果たして増加や減少をするだろうか。

それは未来がやって来たり、過去がやって来るまでわからないから、未来はずっと先だよ。
今はようやっと、小さな世界だ。あなたは今は別世界の人かも。

(それでも僕は別世界の人のことで泣いたり怒ったり行動したりするが、やっと一般人程度だ。今は発生した感情をこの小さな世界に何らかの形で返すことが、やっと社会人だ。)

そもそも大きな世界などまやかしで、どちらかというと小さな世界が無限に蠢いている様が回路や生体のようだと僕は思う。でもそれが大きな世界で、じゃあ制御しようとするのはとても人間らしい。すぐに大切なことを忘れるのは、いいんだ。性質だから。再確認を怠ってはいけない大切なら。

大切な人

今、好きな人が9人いる と公言するようにしています。それを小さな世界と呼んでも差し支えはないのです。

ポリアモリーの話につなげるのは、「わかりやすい話」にそれでもなってしまうのだと最近気が付いて、
それはなんだかポリアモリーの有名人に申し訳なくて、なぜなら僕のポリアモリーはオーソドックスじゃないから、でもオーソドックスってなんだよってますます思えますし、僕が言えることは、とにかく他者と違う感情の発生の仕方で当たり前だってことだと立ち返る結果になります。

(他人にわかりやすく伝えたいがために始めたブログも、もうわかりにくい話ばっかりで放置ぎみなのは、そもそも複雑怪奇なこの話について共有できればよいのが、取り立ててはかるべにまつわる「当事者」だけで済んでいるから。)

好きについて性欲の話もあって、だからポリアモリーが整理する上で役に立つ言葉なのですが、
でも、性欲も関係性も感情もエピソードも独特過ぎて、外の世界から見てまでシンパシー覚える糸口もないかな、と。「わかりやすい」部分がないのだから。

でも、3つの指針に則って関わるのみです。外の世界から見てその関係性に名前がないことなんて得てしてあって、だから、それを自省にして、外の世界を見るとき、「わかりやすい話」なんて一つもひとっかけらもないと臨むことをポリシーにしよう。地球の歴史上に「わかりやすい人」なんていなくて、「わかる」「わからない」とは違う視点を持たなければ、もうきっと衣食住を満たすこともかなわなくなるという危機とウキウキで生活をする。
今は、きっと、社会人だ。

書くということ

最近、本当の本業は現代詩を書くことと少しずつ言えるようになってきました。これはきっといずれ肩書きの座を奪取して、このブログも整理するときに肩書きに詩人だの書き手だの明記するようにいずれなるのだろう。それは経済的な生業ではないが、今 心を侵食するように、精神的な生業になる。

今まで、「書かなければならない」で書いていたが、もうこの小さな世界で「書かなければならない」ものは書ききってしまって(強いて言えば経済について「書かなければならないもの」の思案が少しまとまっているが、これはなんか大きな世界についてだったから、まだ小さな世界と大きな世界の存在の危機を繋げる気がなくて、いいかなって。)、「書きたい」ものを書こうと始まった。
でも「書きたい」ものの方が一般的な日本語に近くて、少し安心している。届ける気概がないから、フリマに出せればいいけれど、真実に楽しまないとつまらないから、これもきっと本業になるのかもしれない。そのときは本当の社会人だ。
かるべがニートから一般的な社会人を経て本当の社会人になるまでのイメージがカスタードクリームには詰まっているのかも。

さて、こうこうああすればよい なんてない世界を地で生きるのがこれこそ尊大なニート精神。
今は、なぜアートマネジメントとかるべなのか考えているけれど、そもそもアーティストとアートマネジメント実践の二足のわらじを夢見るなんて訝しいにも面白いにも程があるなんて思っちゃう。
搾取してはならない。その一心で頑張ることの、不経済さたるや。

(しかし、今後の経済規模縮小の予見や必然に逆らって、アートもまた反動で都市化していく)

具体的な話

とりたてて、年内の決まっている予定は腰を据えて頑張って、その傍らで書くことにつながる活動と、からだ作りと、ワークライフバランスして(ワークが多すぎる)、フリーターしています。
でも、少しだけ真面目に就職のことも考えています。でも、少しだけ真面目に自営のことも考えています。でも、少しだけ真面目に法人のことも考えています。
でもいずれにせよ、社会不適合は遺憾無く発揮されるでしょう。

今はまだ大きな世界は蠢くでいだらぼっちで、小さな経済の輪郭を追えないのです。
いや、それを言えるのは、前よりもう少しなのかも。

福岡に来て2年経ちました。縁は、時間を持つ、四次元のようだ。

そんなかるべの話でした。

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