正式な「所属」を持つことへ慎重になる思いとは。

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僕は「明確な所属を持たない」と宣言している2015年7月18日現在です。

参考記事:かるべまさひろ(苅部将大)とは ?

ブログの更新について滞り、思い悩んだのと重なりますが、
僕は現在、正式な「所属」を持とうとしています。

それに際して「所属」 について考えていることをまとめないとなぁ、と思っていて他の記事を書く様なこともできないクソ人間なので、今日まで至ってしまいました。

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「所属」がアイデンティティに関わってしまう不器用さ

これは「新卒制度」のことでも言えるのですが、「普通の人」は「所属」に対して自分の人生の精神的な大幅を侵食させない様に試みるかと思います。
それを侵食されることで、様々な弊害や社会問題・病気が発生するのかな、とも僕は感じています。

参考記事:多様性を育むくせに、新卒採用制度はオワコンにならない

ですが、僕は「所属」に大幅に侵食されてしまいます。
これは、この文面では非常に危険なように感じますが、実は「考えない秘訣」を手にした人の多くは「所属」にアイデンティティを委ねているのが現状です。

自分が何者であるのかということと「所属」が、食い違う負担を真っ向から喰らうよりも、
どちらかを譲歩させるか変化させるかして、一致させている方が、病気にならずに済むからです。

問題は、これを技術的に、才能的に、障害的に一致させることがほぼ不可能な部類の人間がいることを見落とされて社会が運営されていること、可視化されている部分を既得権益に犯された有志団体が独占していることです。
強い言い方ですが、僕が見てきたのはそういう人間の「見て見ぬ振りをする」嫌な部分と「見えない部分を知覚できない」綺麗好きな活動家の姿でした。

「所属」とアイデンティティが対立する少数派の人間の問題でしかないのです、今ここで書いていることは。
せめて僕にとっての「所属」とアイデンティティの問題が多くの人のようにねじれの関係であったらこんな人生ではありませんでしたが。(だけど、僕はアイデンティティを優先しすぎていることでの優越感も同時に持っていること)

それだけ「所属」について慎重で、疑り深くて、きっとなににも「所属」できる日はないだろう、と踏んでいた僕が今まさに正式な、パブリックな「所属」を教育機関以外で持とうとしている。
その事の重大さを、多数派の人にどう言おうか、という記事です。
(多数派、少数派、という言葉自体が揶揄なんだけれど、こんなこと言わないでも笑顔でいられる具体的な生活さえ送れたらね、いいのにね)

「所属」=アイデンティティになるのがさも理想のようだが、僕が今「所属」しようとしているところへアイデンティティを重ねているわけではない

僕が今「所属」しようとしている先は演劇の関係であり、確かにパッと見アイデンティティにまるまるとかぶっていそうなステータスだ。

でも、僕が記事を書くのである。そんなまんまど真ん中ど直球でアイデンティティが一致してひゃっほーなんて展開であるわけない。

僕がここで特筆したいのは、僕が多くの人と同じように「『所属』』とアイデンティティを完全一致させずとも幸せな自己同一を持ち暮らす」ことができる分野が演劇であった、ということだ。

僕のマイノリティ性はここだ。
多くの人が就活で絞れる「分野」

それが狭いのだ。

僕は「演劇」という分野でしか、多数派のように「別に自分の本質まで全部賭けてる訳じゃないし!」って態度を内心でさえ抱けないのだ。
そしてそれをもちろん、外に出さないという多数派の技術も「演劇」の分野でしか発揮できない。
(そしてこれをこうして垂れ流さないといられないという重度の問題は別に抱えている)

まるで僕は「演劇」によってアイデンティティを完全に満たしているようだが、
それは如何せん違って、やはり「恋愛」「音楽」「ゲーム」などの割合は変わらず大きい。

だから(もちろん演劇が好きなのだが)「かるべは演劇で自己実現を果たしている」などと勘違いされたら、人間関係として困るのだ。
僕は「演劇」のことに関してならこれから精神的にはいくらでも「仕事」として全うに取り組んでいく所存だが、
勘違いされて、「好きなことをやってるんだからいいじゃん」とか言われようものなら、もう人間関係が破綻するレベルで、「これが社会人の世界の狭め方か」と言わんばかりなのだ。

僕が望むことと言えば、「これだけ資本主義の社会において、演劇でしか有用な働きを見せられないとかどんだけ高学歴プアのプアのプアなんだよww」って世界を冷静に分析されることくらいです。

参考記事:自分が好きなものがわからないことに不安を覚えるのは、社会に適応しようとしている証拠だから自信を持っていい

僕は「演劇」にアイデンティティを重ねているわけではなく、やはりどうあがいても必然的に「演劇」の潮流に巻き込まれてしまう哀れな特性を、やっとこさ楽しむしかねぇわ生きてる限り、と考え直したに過ぎないのです。

「所属」をすることでの弊害を考慮したが、僕はそれを凌駕できる、する

「所属」を持つことで、何を危惧したかといえば、もちろん一番は「イメージ戦略」のことだ。

参考記事:イメージ戦略についての思索

僕にまつわる「イメージ」が僕だけのものでなくなってしまう可能性が高いからだ。

しかし、それについてはこの「思想犯?」等の実践が僕を凌駕させてくれた。
なぜなら、僕の「イメージ」はそれぞれが断片でしかなく、総合しても統一的な見解を出すには至らないからだ。

もちろん、断片であれ僕なので、それら全てを「イメージ戦略」として完璧に演出させる「パブリック」な必要が一般的にはあるのかもしれない。
(大抵の人が18禁の話題を封じるように)

だが、僕が言っていることは、
「僕は死ぬべきか、許されてよいのか、忘れられてしまえばよいのか、あるいは答えを出さない生き方に再会などの光はあるのか」
そういうストーカー精神です。

参考記事:ストーカー加害者にならないために健全な人間関係を築くかるべ

「所属」をすることで「イメージ」への制限や精神的な余白が緊縮されるようなことが、表明の社会的な、視線や表情での制限が課されるかもしれない。
それは当たり前に考えました。
もちろん、僕のストーカーレベルに育ててしまった精神についても同じように対立を図りますし、他人への迷惑を新規に取り入れることになるとは思いました。

それでも、僕が意見を言い、何かに向かい、何かを憂い、それでも愛しく思い、作品を信じる以外の力を持たず、過去を悔やみ、楽しみ、歌に泣く幸せでもうどうしようもないそんな具体的な短い生活を
(許されるなら)送ることで、弔いや贖罪、あるいは今まさに中学生の僕が望んだ罰の真っ最中なのか、何も考えずにいられる人間の時間なのか、そもそも命が続けられるなら、

この「所属」を今度は大事にしよう、と。

そして、僕は「所属」に従属するのでなく、「所属」を触媒に二酸化炭素や酸素を発生させられるのです。

社会のゆがみに、政治的な社会的な知識も希薄なまま目を向けすぎていることだけは割りをわかっているのですが、
もしもこれが一人の命として具体的な実感をいつかどこかで与えられるなら、「今生きている意味があるはずだ」と高校生の僕が言う。

そんな、かるべの話でした。

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